Google Earth ブータン関連情報


解像度が悪いところが多いのですが、トンサ〜ブムタンが何故か解像度が高いです。(一部真っ暗なところもありますが)
他のところも解像度上がるといいですね。


"トンサ・ゾン" lat=27.5017479606, lon=90.5056241093
黄色い屋根がはっきり見えるので、まずこれから見るのがベストかな。


"トンサ付近の橋" lat=27.5205461027, lon=90.4598238414
"トンサ・ゾン向かいのビューポイント" lat=27.4962747977, lon=90.4963258629
"クンガラプテン(おそらく)" lat=27.4645446546, lon=90.4934586562


"シムトカ・ゾン" lat=27.4382902535, lon=89.6696120264
"クジェ・ラカン" lat=27.5870111609, lon=90.7300008186
"タムシン・ラカン" lat=27.5873158253, lon=90.7380674357
"メンバルツォ" lat=27.5393121274, lon=90.8117896634
"ジャカール・ゾン" lat=27.5491192757, lon=90.7434324871
"プンツォリン・ゲート" lat=26.8611994177, lon=89.3807715234


"タクツァン僧院(解像度低)" lat=27.4949417334, lon=89.3578958606
"パロ・ゾン(解像度低)" lat=27.4268348225, lon=89.4232397932
"タシチョ・ゾン(解像度低)" lat=27.4907734488, lon=89.6343179111
 
 
 

 マサンダザ訪問記

折角なので、2000 年初夏にマサンダザを訪れた時の日記を抜粋して掲載します。


6 月 23 日

リンメタン着。ここからマサンダザまでは徒歩だ。日が照っていないとはいえ暑い。周囲は木が鬱蒼と茂っていて、トウモロコシ畑が続き、様々な草々が生い茂っている。前回訪問時とはまったく様相を異にしている。やっとこの村に着いたと思うと足取りも軽い。


やっとのことで、前回もお世話になった村長宅に着き部屋に通される。もう汗だくだ。しばらく休んでいると、お茶や果物などをいろいろと出してくれた。この村はかなり裕福なのではないだろうか?果物も豊富だ。グアバ、プラム、パッションフルーツ、バナナなどが庭に植えられている。イネやトウモロコシも栽培されている。

続きを読む

 マサンダザの伝承

マサンの一画像(おそらく)


1998年に初めてマサンダザ村を訪れ、その後寺院への寄進を通じて関係を持っています。昨日の新聞記事では足りない情報もあり、某所に提供した文章の一部ですが、改変の上再掲してみました。マサンダザはコメとトウモロコシを中心とした農業を生業とし、亜熱帯性の動植物に溢れるブータン的な山村です。


マサンダザの住民は、ウラ・ラマのことを「われわれのラマ」と呼び、ウラの住民は米をここの収穫に頼っているといった具合に両者は古くから共存関係にあった。それにはこんな伝承がある。

続きを読む

 マサンザダ墳墓群

マサンダザ谷(オリジナル画像)



クエンセル2005-05-16
(シェルブツェ大学歴史学部講師ウゲン・ペルゲン)


ブータン人は死者を火葬するが、過去には土葬の習慣があったのではないだろうか?


モンガル・ゾンカクに位置するリンメタンの集落、マサンザダ Masan Daza で約 20 の土葬墳墓群が発見され、カンルンのシェルブツェ大学歴史学部は、過去ブータンで土葬の習慣があった可能性をさらに調査しようとしている。マサンダザの土葬墳墓群はブータンで初めて発見された土葬墳墓で、ブータン古代史の一端を解明するきっかけとなる。


マサンダザはモリリ Mori ri 川の左岸に位置し、モンガルとブムタンを結ぶ幹線道路のすぐそばにある。近くにはジャンドゥン Jangdung の集落と古いションガル・ゾン Zhongar Dzong の遺跡がある。村落は 1980 年代に政府主導の定住計画によって進められた新しい集落である。昔はマサンダザの集落一帯はウラに住むブムタンパの牧草地tsamdrokとして冬期には放牧地として利用されていた森林地帯であった。

続きを読む

 ゴンパとラカン

ブムタンの長い壁チョルテン



ブータンの宗教建築物は外壁の上部を赤く太い線がぐるりと取り囲んでいることから(そうでないものもあるが)、見た目でわかりやすい。そういった建築物の代表的なものはゾン Dzong である。


ゾン以外の宗教建築物としては、ラカン、ゴンパ、ダツァン、チョルテン、マニコル(マニチュコル)などがある(ネパール式、チベット式のチョルテンは赤い線はないが、ブータン式の壁型チョルテンなどには赤い線が入っている)。例えば、パロにはキチュ・ラカン、タクツァン・ゴンパなど。ブムタンにはジャンペ・ラカン、クジェ・ラカン、タムシン・ゴンパ、コンチョスム・ラカン、セ・ラカン(ロダク・セカル・ダツァン)などがある。これらの名称はどう違うのか。つか、違うのか?

続きを読む

ゾンカの国語化

1971年にゾンカ部門 Dzongkha Division が創設されて以来、政府によるゾンカ普及政策が推進されてきました。そして1980年代後半のゾンカの国語化を受けて、1986年にはゾンカ諮問委員会が発足し、ゾンカの標準化および普及の政治的指針が作成されました。同年、ゾンカ普及委員会 Dzongkha Development Committee が設立され、この部門ではゾンカの表記法の確定や新語の翻訳などが進められました。1989年2月に学校のカリキュラムからネパール語が廃止され、この政策は難民団体などから「ネパール語禁止政策」として批判の対象となりました。しかしネパール語教育は、もともと南部地域のみの特別措置であり、1980年代末の閣議においてすでに廃止が決定されていました。その理由として、

  • ネパール語による教育が南部地域におけるゾンカ普及の阻害要因になっていること、
  • 現在の状況が本来ブータンにはなかった言語であるネパール語のみを優遇し、ツァンラカなどの在来少数派を無視する結果になっていること、
  • ブータンの無償教育が新たなネパール系不法移民を誘引する結果になっていること、
  • 教育法が変化したこと、
  • 三ヵ国語での教育を行うだけの資金が不足したこと

など*1とともにユニセフのレポートにブータン南部の小学生が三ヵ国語を学ぶのは語学習得水準の向上に負担が大きいと報告された*2ことに対する対応が重なったことも影響していると考えられます。

*1:Driem, George van, Language Policy in Bhutan, Bhutan: Aspects of Culture and Development, Michael Aris and Michael Hutt eds., Kiscadale Ltd., Scotland, 1994, p.102.

*2:Hutt, Michael, Refugees from Shangri-la, Index of Censorship, Writers and Scholars International, London, 1993.04.

続きを読む

 「ゴ」=「呉服」ってどうなの?

「ゴ」と「呉服」の関係については、過去(今は無き)某所でさまざまな確執を生みつつ議論されました。そのときの議論はうやむやになってしまったようですが、私なりの視点で少し考察を加えてみることにしました。もう少し手際よくまとめられるのではないかと思うのですが、取り敢えず試験的に公開します。また、古漢語の解釈についても自信の持てる出来ではなく、認識不足の点がございましたら、ご意見を頂ければ幸いです。現時点では発音記号の一部、漢字の一部が表示されていません。ごめんなさい。


(1) 「ゴ」と「呉服」の関係

ブータンに住むチベット系住民(ドゥクパ)男性が着用する民族衣装「ゴ」は、その形状および着衣形態から日本の着物との類似性を連想させる。「ゴ」、「呉服」と呼称も類似しているため、つい両者に関係があるのではないかと想像したとしても不思議ではない。これは両国友好促進を語る際のエピソードとしては有効に機能するであろう。現にエッセイなどで「ゴ」と「呉服」はその名称から三国時代の「呉」の衣服がルーツであると言及している著名人もいる*1。確かにブータンチベット系文化と日本文化は同じ照葉樹林文化帯に属しており、米食、漆の利用など類似する部分が多いことは事実である。その意味で「ゴ」と「呉服」の間には関係があるかもしれない。しかし、その根拠の一つとして名称の類似を挙げることについては、現時点では多少の躊躇を感じざるを得ない。
本来、この問題に関しては二つの点から考察する必要がある。一つは言語からの検証、もう一つは服飾史(形状)からの検証である。チベットの民族衣装チュバとブータンのゴは類似する部分が大きく、関係があるように思えるが、本稿ではまず言語学的な観点から「ゴ」と「呉服」が同源である可能性を考察したい。

*1:野村万之丞、<この人・きもの論> きもののルーツ、『NAGANUMA 84号』、長沼静きもの学院、1998、pp.2-5.

続きを読む