ブロクパ(Brokpa)


(1)地理的分布

タシガン・ゾンカクの最東端の2つのゲオクに分布する遊牧民族。インドのアルナーチャル・プラデーシュ州に接しているのがメラ・サクテンである。標高は3000m以上(氷河の最低標高)の氷河に削り取られた谷に住んでいる。メラはニェラ・アマ・チュNyera Ama Chhu の上流、サクテンはガムリ・チュ Gamri Chhu 沿いの低地に位置する。メラは 213世帯 1908人が、サクテンには 330世帯 2126人が住んでいる。しかし、メラ・サクテン合わせた人口は、ブータン全人口の0.12%にすぎない。男女比は、メラが女性 1000人に対し男性が 1141.4人、サクテンが 1051人と男性が高くなっている。これは全国比よりも高い率で男性が多いコミュニティである。というのも、ドクパ社会では男性が経済活動を担うからである。


(2)起源

ドクパの起源は紀元後640年のソンツェン・ガンポ王の時代にまで遡ると言われている。ツォナ Tsona のイェザン・ペンポ Yezang Penpo 王が住んでいたチベットのコムレ・ロクスム Komley Roksum と言う場所が起源である。ドクパの伝承によると、ある日、王が臣民に太陽の光を阻んでいる山の峰を壊すように命じた。そうすれば、王の白は太陽に照らされて光り輝くからである。人々は何年もかけて働いたが一向に山の峰は低くならない。自暴自棄になった人々はジョモ Jhomo という若い女性の下、王を殺し、ツォナを捨ててブータンへとやってきた。
ツォナからやってきた人々は、アモ・ジョモ Amo Jhomo により、3つの集団に分けられた。まず、東のグループ Sharpa Dengze はアルナーチャル・プラデーシュ州のドメゴ・ミルツェン Domego Mirtsheng という場所に近いサクテンに定住した。次に、南のグループ Lhopa Dengze と西のグループ Nuppa Dengze はともにルン・ゼンポ Lung Zempo に定住した。ここには今でも石造りの住居跡が残っている。数年後、南と西のグループはサクテンへと移動し、そらから現在のメラのほうへと移動して行った。
ただし、メラへとやってきたのは厳しい環境に耐え、アマ・ジョモとラム・ジャラパ Lam Jarrapa とともに困難な旅を続けてきたほんの一握りの人々であった。アマ・ジョモらがメラに来たとき、ここは木々が鬱蒼と茂っており、住むために切り開き、山焼きを行った。そのため、この土地はメタ Methra (ゾンカで「火をつける」)と呼ばれ、その後メラ Merak と名を変えた。一方、サクテンという地名はこのあたりに生えている竹が起源である。ダクパの言葉で「竹の土地」という意味である。
ダクパの居住地域はボランツェ Borangtse、ボランマン Borangmang、テンマン Tengmang、プサ Pusa、タクティ Thakthri、マニドゥングル Manidungur、ムルペ Murphey、ジョンカ Jongkhar、トロン Tholong など、農耕に適した暖かい、交易の便の良いところへと拡大して行った。メラでは初期はメラ及びゲンゴル Gengor に定住していたが、後にキリプ Khiliphu やチャリン Chaling などの低地へと居住地域を拡大した。しかし、メラ・サクテンの集落は伝承より240年後の第3代ジェ・ケンポ、テンジン・ラプゲの時代に出来たものだと考えられる。


(3)生活

ドクパの生活は伝統文化が残り、生活の重要な位置を占めている。男女は平等の立場で、家族を扶養する責任を持つ。女性は夫や子供達の尊敬を受け、一家の財産、子供の結婚、移住の時期などものごとの決定権を持っている。また、宗教的、社会的役割においても一家を代表する。男性はいつもヤクの放牧や日用品の交易で不在にしているため、女性が地域の会合に参加する。また、地域の用事や福利に関することについて、夫の代理の役割を果たす。
ドクパは独自の伝統文化をもち、これに従って、出産、葬儀、結婚などの社会生活が営まれている。一夫多妻制 polygamy と一妻多夫制 polyandry が残っており、結婚はほとんどが見合い arranged marriage である。典型的なドクパの結婚は懇親会でカップルが出会うことから始まる。花婿の両親が依頼する占い師の意見に従い、酒を贈るために花嫁の家を訪問する。これをドンチャン deunchang と呼ぶ。続いてカダを花嫁の家族全員に贈る。これをバルチャン barchang と呼ぶ。花嫁が結婚を拒否した場合、花嫁の両親はゲプチャン gyepchang という返杯をする。求婚が成立をすると、花婿は花嫁にパンケプ pangkhyep というショール(肩かけ)を贈り、結婚式の日取りを決める。
出産は将来の働き手の増加という意味でも歓迎される。葬儀は他の民族から見ると異様に映るかもしれない。普通ドクパの死体は占い師の指示に従って、3〜6日間水につけておかれる。水から揚げると108つに切り刻まれて川に投げ込まれる。、しかし高僧の遺体は、遠く離れた場所に放置され、野生動物に食べさせることが多い。鍛冶屋などの低カースト層は土葬される。
ドクパにはアルナーチャル・プラデーシュ州のタワンパ Tawangpa の方言に類似した言語がある。発音はゾンカに類似し、チベットビルマ語族である。
宗教はチベット仏教ゲルク派で、生活の重要な一面を担っている。アマ・ジョモは、肉体的な死を迎える前に天に昇ったと信じられ、ドクパの信仰対象になっている。シェルプ Sherpu はメラの土着神の一人で、毎年プジャを行い、人々と家畜の安全を祈る。4つの大きな祭があり、ツェチュはグルをたたえるもの、ニュンゲ Nyungue は断食と話をしない祭、マンクレム Mangkurem は悪霊を払うため3日間歌い、経典を読む。3日目にはマスクダンスを行う。最後の1つはチョコルという祭りである。


(4)家畜中心の経済

遊牧民族で、農業が困難な厳しい気候のため、ドクパの経済は主にヤクや羊の飼育や日用品の交易などが中心である。富は家畜の数で判断される。裕福なドクパは150〜180頭のヤクのほかに、馬や羊などの家畜も所有している。中流層は20〜50頭のヤク、貧困層は2頭以下のヤクか全く所有していないこともある。
長期にわたる半遊牧生活のため、日用品の交換というバーター交易がまだ存在している。交易相手は隣のゲオクやインドのアルナーチャル・プラデーシュ州の村である。ドクパにはドゥコル drukor という独特の交易関係がある。これは、村を移動して彼らの製品と食糧用の穀物を交換することで、10月後半には始まり、2〜3ヶ月続く。穀物を集めるかたわらに、交易用のバター、チーズ、織物なども運んでいる。この交易を通して、ドクパは他の村にネポ nepo というホスト・ファミリーという協力関係を構築する。ドクパは彼らとチーズ、バター、肉、羊毛の毛布などを交換する。しかし、現在多くのドクパは家畜や日用品を現金化するようになったが、家畜に頼ることが出来ないものは、大工、仕立て屋、織り工、鍛冶屋として生計を立てている。


(5)発展の傾向・将来

衛生・家族計画の導入や教育の普及が近年行われているが、ドクパは基本的に無関心である。これはまだ大家族制の名残から、子供の数が多いほど家畜の放牧を行う労働力が賄われると言う考えが一般的だからである。衛生状態は識字率の低さと、衛生施設の導入の遅れにより総じて悪い。
教育に関しては、1987年にメラ最初の小学校が設立され、1999年には12人がクラス6に進学した。就学率も上がっているが、親の世代の教育に対する理解は進んでいない。そこで、政府は7年以上の就学を義務化し、違反者には10Nuの罰金も設定したが、成果はまだ上がっていない。ドクパはその特殊性を現在でも堅持しているが、生活は徐々に変化してきている。政府は段階的な発展を試みているが、それをドクパが受容しようと姿勢はあまり見られない。


参考:Kuensel 2001/02/10