マサンダザの伝承

マサンの一画像(おそらく)


1998年に初めてマサンダザ村を訪れ、その後寺院への寄進を通じて関係を持っています。昨日の新聞記事では足りない情報もあり、某所に提供した文章の一部ですが、改変の上再掲してみました。マサンダザはコメとトウモロコシを中心とした農業を生業とし、亜熱帯性の動植物に溢れるブータン的な山村です。


マサンダザの住民は、ウラ・ラマのことを「われわれのラマ」と呼び、ウラの住民は米をここの収穫に頼っているといった具合に両者は古くから共存関係にあった。それにはこんな伝承がある。



昔、この谷にはマサン Masan という怪物がいた。当時集落は山頂にあり、人々は農耕のために谷へと下りて来る生活を営んでいた。そうした人々は時にマサンの餌食となり、 3 人谷へ下りると再び村に戻ってこられるのは 1 人ぐらいという状態で、村の人口がどんどん減少していった。


ウラ・ラマ(ゲデン・ラマ)であったリクシン・ナムギェルは、ヨギをマスターしウラからクルテをまわってこの谷へとやって来た。17世紀ションガルの城を治めていた王はウラを治めていた王と同じドゥンカクポ王であったためだ。当時、チベット仏教ドゥク派の信徒は少なく、冬になると各地を歩いてお布施をもらって歩くのがラマの役割だったのだ。マサンダザからウラまでは徒歩 3 日。ラマは、ここで瞑想修行を行おうとやって来たのだった。しかし、彼がマサンダザにやって来たときには、村は空っぽになる寸前であった。


村人たちはラマに怪物を調伏してくれるように依頼し、その暁には九穀 'bru sna dgu po をすべて差し上げ、ゲデン・ラマの信徒になると約束した。ラマはこれを承諾し、「 7 日間私を見に来ないように。そして 7 日後に野菜と牛乳などの食料を持って谷に下りて来るように。」と村人たちに伝えた。そして、ラマはマサン調伏の瞑想のために、谷へと下りていった。


マサンはそれを阻止しようと、ラマに近づいた。まずは、ゴムチェン(在家修行僧)の格好に姿を変えて、道を尋ねたがラマは何も返事をしなかった。次に女性に変身して話し掛けたが、ラマを邪魔することはできなかった。その次に大蛇に姿を変えてラマに巻き付き脅かそうとしたが、これも失敗に終わってしまった。万策尽きたマサンは本来の姿(上半身は人、下半身は大蛇、頭には 9 匹のヘビがついており、深青色の身体で恐ろしい顔をしている)に戻り、ラマに許しを請うた。ラマはマサンに「今後村人を襲わないように」と命令すると、マサンは「そうすると食べるものがなくなる」と言う。そこでラマはマサンに「村人たちに年に一回野菜、卵、乳製品を供えさせる。」と約束した。


この年一回の法要にはゲデン・ラマも必ず出席する。このとき、守護神ヤダム Ya dam であるヴァジュラパーニーの儀式を行うことになっている。これは毎年食料の少なくなる冬場に行われ、マサン供養 ma srang ssol kha と呼ばれている。



この話は、日本の三輪山伝説とも共通点が多いようです。以下の話は三輪山伝説を研究しておられる方が、ブータンで採取してこられた伝承です。


ツァマンに伝わるションガルの民話


 ツァマン・ポンチェン Tsamang Poenchen という貴族の娘がいた。ツァマンの村は夏になるとションガル・ゾンのあたりに下りて来て稲作を行う習慣になっていた。
 あるとき一人の男性が夜になると、その娘を訪ねてくるようになった。しかし朝になるとどこへともなく帰っていって、誰も昼間にその姿を見たものがいない。村人は不思議に思っていた。毎晩男はやってきて、そのうち娘は妊娠してしまった。


 娘はその男の正体を知りたくて、男の着物に糸を結びつけた。翌朝、糸の後をたどっていくと、ある山のがけの下にある洞窟 go lang brag の中へと続いている。中を覗くと一匹の蛇 serpant がいた。娘は怖くなって、急いで村に戻り、農作業をはじめた。大きな田を一人で一度も腰をあげもせず、休みもせず、田植えを続けて、それが終わるや否やあっと声をあげて死んでしまった。村の人々はこれで娘は蛇神の妻になったのだと納得した。


 この蛇神は後にションガル・ゾンを建設したテンペ・ニマによって調伏され、またぺツェル・トゥルクによって再び調伏された。この調伏は旧暦の9月にモンガル・ゾンで行われるマハーカーラーの法要の最後に行われる儀式に残っている。