ディグラム・ナムジャって何?


1989年1月に始められたディクラム・ナムジャは、ブータンにおける「伝統」的な生活において守らなければならないさまざまな規律の総称で、チベット系伝統文化復興運動の側面が強いものでした。一般的に語られる場合は、チベット系民族衣装の公共の場での着用と礼儀作法いう面に焦点があてられることが多いです。着用を義務付けた民族衣装は男性用が ゴgho、女性用が キラkira と呼ばれるもので、ゴは日本のドテラを思わせる形状をしており、キラは一枚の布を体に巻きつけるインドのサリーを思わせる形状をしています。


しかしこれも誤解の多い政策で、人権団体や難民は、「国民全員にいかなるときもチベット系民族衣装を着用させ、それ以外の民族文化を無視している」と主張していますが、本来これはチベット系住民、とくに青年層の西洋化を憂慮した政府の政策として実施された*1もので、少数民族の同化促進を第一義として画策されたものではないということを語る人々は少ないです。


当時ブータンの若者は、近代化の影響やさまざまなメディアを通して西洋文化に染まりつつあり、欧米の映画の主人公を真似て皮ジャンをきたり、ディスコに入り浸ったりという生活を送っていました。伝統文化の衰退(この場合、西欧化≒インド化)が、国家アイデンティティの衰退へとつながり、最終的には国家の存在事態を危惧するようになった政府は、風紀維持を目的として、この規定を国家公務員に限定して実施したのが最初でした。後にこの政策は全国民を対象として拡大され、公共の場で民族衣装を着用しないものに対し、100ヌルタムの罰金も設けられました*2


だが、チベット系民族衣装は本来寒冷気候に適応して発達したものであり、気候の大きく違う南部地域からの反発が大きく、公務員以外のネパール系住民への適用は見送られました。しかし、いまだに民族衣装の強制着用を持ち出してブータン政府はネパール系住民を抑圧していると主張する人々がいますが、これはすでに認識不足であると言えまし。1998年3月に南部国境のプンツォリンで私が見たところ、日常生活では民族衣装を着ていない人々も多く存在しており、店で販売されているゴも薄手の生地のものが多く出回っていました。つまり単に着用を強制するのではなく、現地の気候に合わせて民族衣装にも工夫が加えられている点にも注意したいと思います。
 
 

 

*1:増子義孝, 伝統守り自立へ懸命――ブータン, 朝日新聞朝刊, 東京, 1988.6.10., p.6.

*2:Parmanand, The Politics of Bhutan: Retrospective and Prospect, Pragati Publications, Delhi, 1992, p.130. 尚、木佐芳男, 「自己」を模索するブータン, 読売新聞朝刊, 東京, 1989.10.12., p.4.によると、首都ティンプーは150ヌルタムの罰金で、地方によって金額が異なることを指摘している。