ロプ(Lhop)


(1)起源

ロプ Lhop を表す言葉として一般的な「ドヤ Doya」いう語は、ネパール語の「ダヤ daya」(「親切な」の意)が起源である。ネパール系移民がこのあたりに移住した際に、ロプは既に固有のコミュニティを形成していた。人見知りで親切、温和なロプの人々は、新参者を親切に扱った、これは先祖代々の土地でさえチャンとの交換に彼らに耕作を許した寛大さもある。移民は彼らを感謝の意をこめて「ダヤ Daya」と呼んだ。「ダヤ」は転訛して「ドヤ」となり、ロプ自身もこの名前を使い始めた。


ダヤとタバ・ダムテプ Taba Dramtoep は別の民族集団だと考える人々もいる。タバ Taba とドムテカ Dromtoekha はタバプ Tabap とドムテプ Dromtoep の住む集落で、ロプは主にロトゥ・クチュ Lhotu Kuchu、サンルン Sanglung、サタカ Satakha 等の村に住んでいる。ロプは半遊牧集団でハやパロの定住者が所有する家畜牛の世話することを生業にしているといわれる。マイケル・アリスは、ロプがチュカ・ゾンカクのトクトカ Toktokha 流域に住む民族と同一である可能性を指摘し、トクトプ Toktop をドロカ・ドゥンカク、タバ・ダムテカ、トクトカに住むロプの一般名称であるとしている。また、チュカ・ゾンカク西部のドゥンナ Dungna 峡谷の古くからブータンに住むドゥン Dung という民族が3つの集団に分裂したと推測している。ロプの集落の古老によると、1960年代までのロプの居住地域は全てあるドゥン・ニェルパ Dung Nyerpa (gdung gnyerp) とその関係者の行政管轄下に置かれていたと言う。アリスによれば、ブータンに比較的早くから定住していた人々であり、北部・中部ブータンのより影響力が強く文化的に発展していた人々の拡大によって、辺境へと追いやられた人々であるとしている。


ロプとは「南の人」の意で、主にハやパロの人々が使用してきた。この語はブータンを表した古代チベット文献のロプ・ユル Lhop Yuel (チベットの南の国)、ロプ Lhop (ロプの住民)に遡る。後世、チベットからの移民に南部の山麓へと押しやられた。


ロプは神話的要素の強い民話をもち、その歴史と起源は謎であるが、古くからアモ・チュ峡谷周辺地域には多くのロプが居住していたと思われる。彼らは現在のバラ・テンドゥ Bara-Tendu や、ジャルダカ Jaldakha 峡谷の西端までを居住範囲としていたが、おそらく伝染病か地域紛争によって、現在180世帯にまで減少してしまった。


サタカ村の伝統によれば、ロプはパロのドプシャリ Dop-Shari という村に起源を持つといわれ、タラン Talang と呼ばれる神を信仰している。そこにはタランの神が形となった雄牛の形をした丸い大きな石がある。


ロプやモンパ、マンデプなどの人々は、背が低く屈強な、古代国の原住民として評されるリ・ダクパ Ri-Dragpa (山地の人)と呼ばれる人々の子孫であると考えられている。別に、ロプはサブヒマラヤ山麓の先住民であると考えられているキランティ Kiranti 族と同一視されている。しかし、長い間の物理的孤立と自給自足のおかげで隔離された独自の文化が発展した。歴史的、政治的理由ではなく、より地理的な理由から、ロプは急速な文化的発展から取り残されてきた。テゴラ Tegola 山系はロプの居住地域と他の地域との間の自然の障壁となっており、社会的、文化的交流を高める力へのアクセスがより少なくなったのである。


老齢のロプは、シャブドゥン・ガワン・ナムゲルをロプの宗教の創始者だと考えている。アモ・チュ上流の現在ソンベカ Sombekha と呼ばれている村の主要な守護尊クントゥザンポ Kuntuzangpo はシャブドゥンの宮廷に仕えていた一人のロプによって持ちこまれたと伝えられる。ロプは今でもシャブドゥンの徳と名誉を賞賛し歌を歌っている。また、先祖はシャブドゥンをブータンへと導いたとも伝えられている。


ロプの民間伝承には居住地域拡大に関する興味深い話が含まれている。ロプの奉納の伝統はニェンケ話者地域のものと似通った意味を持っている。「Sele La Wo Chey; Mainaguri Ya Chey」というロプ方言は、セレ・ラの下のほう、マイナグリの上のほうという意味だが、ロプの居住地域は北はセレ・ラから、南はマイナグリまで。東はセティ Se-ti から、西はジャルダカ Jaldhakha までだということを示している。


ロプはシプソ Sibsoo、バラ Bara、テンドゥ Tendu、チェンマリ Chengmari,などヤバ・ラ Yaba La 山地南部一帯に嘗て住んでいたとされる。しかし、ひどい伝染病の流行で人口が極端に減少してしまった。それがいつ起こったのかは定かではないが、1867年頃、つまりドゥアール戦争の直後くらいに起こったと考えられる。


 伝染病の流行後、ヤバ・ラ南西の集落は長い間見捨てられてきた。そして、ハの人々がやってきて、家畜牛を放牧し始め、その後ネパール移民がこの土地を使うようになった。


 伝染病流行説はロプ人口が現在の規模に縮小したことをうまく説明している。この伝染病はヤバ・ラ山地南部山麓のロプが接触していたインド平原から広がってきたに違いない。アモ・チュ峡谷が無事であると言う事実は、その伝染病はロプが現在住んでいる山のもう一方の斜面に到達していないことを示している。


(2)人々

ロプは外見的には背が低く、屈強である。体型は男女ともほぼ同じで、一般的に4〜5フィート(120〜150センチメートル)である。コミュニティ内婚姻による知能障害児の出生率はいまだに高い。サタカ Satraka に住む人々について、ロプは「純粋なロプではなく他の集落と通婚し続けてきた人々」だと見ているが、彼らのほうがロプよりも背が高く、健康的である。ただし、ロプの人々の中には100歳を越える人を見かけるのもまれではない。


しかし、彼らは決してその強靭・勇敢・武勲を過小評価されているわけではない。彼らは岩などを攀じ登るのを得意とし、勇敢なスポーツマンである。家屋の屋根に載せる草は見るからに危なっかしい険しい山の岩肌に生えている。しかし、彼らはそのような危険な岩肌にでも、草を集めるために大胆に、そして冷静に登っていくのである。


(3)言語

ゾンカではロビカ Lhobikha (lho pa'i kha) 、またはタバ・ダムテビカ Taba-Dramtoe-bi-kha と呼ばれる。サムツェバザールから徒歩1日圏内の4つの集落(ロト・クチュ Lhoto-Kuchu、サンルン Sanglung、サタカ、ロトク Lotok) に1,000人以上の話者が居住している。2つのロクプ通用地域は離れているが、言語的には非常に近い。
 言語学的にはロホルン Lohorung リンブ Limbu などの東キランティ語群に近く、隣接のレプチャ語よりも近いとされる。また、ロクプはキランティ諸語の動詞呼応体系を失っているが、ゾンカの同源となるような助動詞や動詞語尾を備えていることから、ゾンカにとって基層をなす言語とみられている。過去にガロンが南部へと拡大する前から住んでいた原住民だと考えられ、ガロンが南下する際にゾンカの影響を受けたと考えられる。


ロプ語でティ “ti” は水、または流れを意味する。そのため、どの川にもその名前に接尾辞のtiがついている。したがって、これがロプの居住範囲を示していることになる。例えば、モティ Mo-ti (アモ・チュ)、ヤシュティ Yash-ti、カムティ Kam-ti、ダムティ Dam-ti など。のちに移民がこの名前にコラ khola を加えたため、セティコラ Se-ti-khola、ハティコラ Ha-ti-khola などが生まれた。ロプ語でドー “doo” は木の名前で、プンツォリンを流れているドティ Do-ti はその水源の周囲に生えている木にちなんでつけられた名前である。


ダムドム Damdom 川はサムツェを流れインドに抜ける川であるが、ロプ語での元々の名前を持っている。この川は二つの支流、ダムティ Dam-ti とドムティ Dom-ti からなっており、ダムティはサムツェの北東向かいの丘陵斜面に源を発し、ドムティはヤバ・ラ山地付近の南斜面に水源を持っている。


(4)社会

アモ・チュ峡谷の南斜面にはランツェカ Rangtsekha、ドガ Doga、ドロカ Dorokha、サタカ、サンルン、ロト・クチュ、ロトク Lotok、ダンベ Drambe 等の集落が、北斜面には、タントカ Thangtokha、デンチュカ Denchukha 等の村落がある。
 ランツェの住民は本来、広義のロプ社会 (Greater Lhop Community) の一部と言われ、ロト・クチュ村の住人にヤル・ロプ Yar-Lhop (上流に住むロプ)と呼ばれている。しかし、彼らは峡谷の上流の村に住み、下流の人々との交流はほとんどなかったと思われる。ヤル・ロプの言語はロプ語との共通性を失っている。ヤル・ロプの人々自身、自分たちがロプとは異なっており、よりランツェに近く、ソンベカの人々の言語により類似した言語を話していると思っている。


彼らは集団を作って住み、コミュニティ内で結婚をする。従兄弟婚もよく行われる。そして、シプダ・ネダ Zhipda-Neda と呼ばれる土地の神を信仰している。性格は単純で謙虚で、寛容である。教育を受けているものはほとんどいない。1983年に設立されたセンテン Sengten 小学校の教員は初等教育普及に力を入れているが、ほとんど不成功に終わっている。しかし、退学率は下がっている。
 ロプの間には新しくやってきて自分たちの土地を占領している他の人々に対する不満はない。入植者は一般的に彼らに対して友好的で、裏表のがなく、酒好きで、話好きで、先のことをあまり気にしないという印象を持っている。彼らの間では義理や責任は非常に重要で、コミュニティのために自分の生活を犠牲にすることもある。


コミュニティ内結婚により、ロプ各個人はお互いに何らかの関係がある。交差従兄弟婚は背の低さや、クレティン病(甲状腺障害による畸形や知能障害)の原因でもある。また、彼らの食事に、他のブータンの山岳民族と同様にヨウ素が不足していることが考えられる。


(5)家族関係

母方の叔父はロプ・コミュニティでは重要な役割を持っている。彼は家族の日常生活を取り仕切る。財産は彼の名前で登録されている。儀式には必ず参加する。彼が死んだり、引退したときはその息子がその責を引き継ぐ。アジャ azha またはアジャン azhang は甥や姪の名付け親になることが多い。


ロプは年長者に敬意を払う。聡明な年長者はジョムドゥ Jomdu と呼ばれる会議での発言権がある。若者は結婚相手を自分で選べるが、両親の承諾が必要である。現在、若者が年長者に意見を求めることはまれである。


(6)衣食住

-衣服

伝統的にロプの男性は綿 pasjin でできたラーエム rah-emという衣装を着用する。これは単純で質素な白の衣服で、背中からはおり、胸のところで交差させ、首の後ろで結ぶ。そして、パジン padzin と呼ばれる帯で腰を縛る。女性はグイーエム guih-em と呼ばれる衣装を着用する。これは綿製であることを除けばキラとよく似ている。衣服の端を肩からかけ、竹のブローチ lung で留める。男女ともプンゴプ pungop というシャツ(テゴ)を羽織っている。古くは衣服をヨジン yodzin と呼ばれる野生のイラクサの繊維で作った。ロプは現在、伝統装の着用を既に止めている。


-食事

肉は昔は野生動物や魚を狩猟によって手に入れていた。現在は、野菜も栽培している。彼らが摂取している食品の品目は少ないが、栄養不足にはなっていない。彼らの食事はモロコシ tsagto (ゾンカでは pchham)やトウモロコシ ra-am、キビやアワ(ミレット) jato から作られるドイ・ハ doih-ha というドウ(生パン)と、簡単な野菜と肉の煮込みが中心である。モロコシなどの穀物は米同様に調理される。ソバ jara からトレン toleng というパンケーキを作ることもある。穀物はまず石臼 rangtak で粉にされる。現在はアムク(マルト) amku/marto という調理米が中心である。


一日の最初の食事はトザ todza と呼ばれ、炒ったトウモロコシをチャ cha またはドウ dow という牛乳からバターを取り出した後の液体に浸したものを食べる。昼の食事はリシュトゥ rishtu と呼ばれる。野菜の煮込みと米かモロコシを食べる。農作業を終えて家に戻るとお茶とともに炒ったトウモロコシを食べる。一日の最後の食事はリプトゥ lipt といい、穀物の粉と野菜の煮込みを食べる。神に捧げる食物はない。ただ、ロプは穀物のかなりの量をチャンを作るのに使ってしまう。


-住居

伝統的にロプの家族は堅木の板材とドゥンパ dumpa と呼ばれる支柱からできたマキン makin と呼ばれるワンルームの家に住んでいる。壁は竹を編んだものに、泥を塗っている。入り口 goh は1つ、窓 dachong は2つである。天井 bahlang 裏部屋は農機具を収納したり、野菜や肉の保存に使われている。屋根 tsilab は、竹の枠組にパリ pali と呼ばれる岩場に生えている草を使っている(ゾンカではダクツァ draktsa と呼ばれる)。


家はあまり大きくなく、たいてい1階建てである。入口すぐのところは客人が座り寝るところである。入口から続く最も奥にはポーン poong と呼ばれる部屋がある。この部屋は入れる人が限られている。彼らは他のブータンの家屋と違い男根(ポー)の表象を使わない。木製の似たような二つの物を同じやり方で魔除けとしてポーンの両端に据え付けている。両親が同居している場合、それぞれの夫婦にはプライバシーを守るための小さな別室が設けられる。


(7)冠婚葬祭

-結婚と出産

他のコミュニティとの通婚は伝統に反するため、基本的に行われない。コミュニティ内結婚が主で、従兄弟婚もよく行われる。その祝事は内輪で行われる。へその緒を切るのにとがった竹を使うのは、おそらく切ったあとが膿まないようにする実用的な方法である。


子供の性別は問題にならない。しかし、母子はしばらく家族から隔離される。出産に伴う出血のため、子供の誕生は出産3日後の儀式が家の中で行われるまで、不浄 deeb だと見なされる。出産3日後、新生児は風呂に入れられ、母子ともに儀式を行い、その身体を浄化する。父、母方の叔父 ku、祖父 ta が名前をつける。3日以内に名前がつかないと、人間ではなくなると信じられている。


ロプの適齢期は10代後半である。見合い arranged marriage はなく、性的に無節操というわけでもない。恋人を見付けるため、若い女性は母屋の建て増しの軒下にボチュン bohchung という小さな別室を作ってそこに寝る。両親はそれを止めさせるわけではなく、やってきた恋人が両親の認める男であるたどうかを確認する。


両親に認められると、その男は義理の息子 makpa として家族の一員になる。娘が配偶者の家族と一緒に住むことは一般的ではない。しかし、男の家に娘がいない場合、「義理の娘」が配偶者の家に行くこともある。ロプは族外婚 exogamy を行わないため、外部の者と結婚した女性はコミュニティーからだけではなく、家族からも縁を切られてしまう。自分のコミュニティー以外の者との結婚は土着神の怒りを買うと信じている。この伝統は現在比較的緩やかになっている。


離婚は一般的ではない。主に子供がいない場合に時に発生する。しかし、夫は最初の配偶者が同意すれば、新しい配偶者を娶ることができる。離婚が一方の意思である場合、もう一方に慰謝料を支払う。子供は普通母親が引き取る。2人の配偶者を養い、両家の財産を管理する男の義務がこの決断の強力な要素になる。


-葬儀

死者の魂は、まだ生きている家族に害が及ばないように、鎮められる必要がある。特に、木から落ちたり野生動物に襲われたりして死んだ場合、にそれを非常に恐れる。ロプは死者の魂には仲間が必要だと考えている。しかし、その目的で人間を犠牲にすることはなく、男性には雄牛を、女性には雌牛を殺して魂の付き添い役とする。


おそらく、僧侶の関わる儀式がないため、火葬は行わない。死体は棺に納められ、3日間家の前に置かれるが、だれもがその死体に触れることができるわけではない。死体に触れる人は死体の側から離れてはいけない。また死者の家族は喪に服している間は他人の家に入ることを許されない。そして、塩と揚げ物を食べてはいけないとされる。死後3日目が埋葬の日である。レシン Lheshing (ゾンカではツェンデシン Tsendeshing)とよばれる木を切り出して、板を作る、この木が手に入らなければ、少なくともこの木を一切れは使う。残りはレシンのかわりになる別の木の板を使い、棺が作られる。死体は白い布に包まれ、籐のロープで縛られ、屈葬される。そして、柔らかい竹の敷物で巻かれ、棺に納められる。選ばれた場所をきれいにし、地面から6インチの高さになるよう石板を敷く。棺はその一段高くなった場所に置かれる。棺の周囲には丸い記念碑が石板で建てられる。


ナイフ、カップ、皿、籠、ポット、フライパン、衣服、靴などの死者の持ち物は、墓の盛り土の上に置かれる。そして、若い女性が盛り土の周りを回って穀物と綿の種を撒く。過去、ロプは墓に死者の高価な装飾品や所持品を一緒に埋葬していたが、現在はこの習慣はなくなっている。現在は少量のコインや少額紙幣を、古い衣服や道具、ポットや皿と一緒に埋葬するだけである。


残った配偶者は3年間他人に食事を勧めてはならず、他人の食事に触れてもならない。他人の家にも入ることはない。これは、彼らが他人に移すべきではない悪いことや哀しみを持っていると考られているからである。一部の男性は喪に服すことを示すために、髪を切らず、死後3年間再婚しない。


-信仰

ロプは迷信深い人々である。日常生活のたいていの事柄は、それぞれに関係する土着の神々に支配されている。中心となるドム(ドム・ザプ)という神は人々の一般的な幸福をつかさどっている。それ以外の神々は、穀物、水、森などをそれぞれつかさどっていると言うことになっている。


生贄としてブタやニワトリを奉納することは一般的である。彼らは輪廻思想を有しており、彼らの迷信は葬式において非常に顕著である。死者の持ち物や食べ物を神に供えるという儀式を行う。アモ・チュの対岸デンチュカ Denchukha の宮殿跡に、古代の統治者が住んでいると考えている。ロプは死が訪れるのを恐れて、滅多にここに近付こうとしない。現在のドロカ・ドゥンカクの役所の下にはマニガオン Manigaon という村がある。ここには地域住民が進行している協力中身がチョルテンの中に住んでいると言われている。アモ・チュの対岸に、ロプにはチュザ・カポ Chuza Kapo (白い滝)という名で知られている滝がある。ロプはこの滝にはゲプ Gepu とゲム Gemu という神が住んでいると信じられている。


-儀式と祭事

ロプの正月はモロコシやソバの収穫と平行して行われる。これはロ lo と呼ばれ、秋の月(ブータン暦の8月)の第29日目から翌月(ブータン暦の9月)の第3日目まで続く。このとき、飲酒、食事、お祭り騒ぎ、祈祷が行われる。


ブータン暦の第30日目は神聖な日である。彼らは竹や枝でできた祭壇を用意し、果物、牛乳、卵、魚をユマ Yuma という村の主たる神やそれ以外のジプダ Zhipda やネダ Neda といった村々の守護神に供える。正月の第3日目には特別な儀式を行う。赤いオスのニワトリはこの目的のために飼育されている。オンドリの頭は切り取られ、長い棒の先に取りつけられる。そしてアモ・チュの水源の方角に顔を向けて屋根に取り付ける。そして来る12ヶ月の加護を祈る。全ての儀式は夜明けから正午まで続く。ロプによるとネコ、タカ、カラスといった動物がオンドリの頭に触れてはならないという。通常そのようなことは起こらないが、触れられたり、食べられてしまったりしたら、それあ凶兆と見做なされる。この儀式はパロやハの谷で見られるロンバ lomba の儀式に似ている。


ロプの信仰によると、シャブドゥンはティンプーのゲニェン・ジャンパメレンに彼らを平原の悪霊から保護するように命令したとされtる。毎年ブータン暦の第7の月の第7日目には集団で森の中に入り、ゲニェン・ジャンパメレンを呼び、ジャンデ Jandrey という平原の悪霊を追いかけ、ロプを守るよう祈祷する。


ロプは弓 ker や石投げ(ゾンカでデゴ doegor)・円盤投げ(ドグ) dogu 等で遊ぶ。ドグは時間つぶしに、弓は村対抗の真剣勝負として認識されている。楽器はフルート系のリンブ lingbu のような簡単な楽器や、小さく平らな竹でできた楽器コン kong がある。

 

参考文献 Kuensel 2001.01.20/2001.01.27