プナカ・ゾン Punakha Dzong

bhutan2006-04-06



標高1,350mと低く、亜熱帯植物も多く見られるプナカは、1955年にティンプーが恒久首都になるまでの300年間、冬の首都として機能した。タシチョ・ゾンの僧侶は現在でも冬になるとプナカ・ゾンに移動する。プナカ・ゾンはブータンで二番目に建設されたゾンであると言われる。1636-7年シャブドゥン・ガワン・ナムゲルによってポ・チュ、モ・チュの合流点の中州に基礎が建設された。それ以前にはゾン・チュ Dzong Chu と(小城砦)いう小さなゾンが、現在のゾンの前に建てられており、釈迦像が安置されていた。大工のパレプ Palep がその仏像の前で眠ったとき、現在のゾンのデザインを夢の中で啓示されたといわれ、サンドペルリの再現とされる。完成後、パレプは トゥビゾ Tubizo という称号を授かった。


別名プンタン・デチェン・ポダン Pungthang Dechhen Phodrang [spungs thang bde chen pho drang] (偉大なる幸福の宮殿)。ガワン・ナムゲルはチベットから亡命する際に、宝物であるランジュン・カルサパニを奪ってきたため、1639年以降数回チベットからの襲撃を受けた。後にチベット・モンゴル連合軍撃退を記念してガワン・ナムゲルは護法尊を拝するための祠を建設した。この時に奪取したチベット軍の武器はすべてゾンに納められている。また、この故事はプナカ・ドムチェという早春の祭りで再現される。


入口の階段は木製で非常に急である。長さは6m。これは戦争などの緊急時にいち早く取り去ることができるように考案されたものである。夜間は入口を閉める。1676年にプナカ・ゾンポンのゲルツェン・テンジン・ラプゲ Gyaltsen Tenzing Rabgye によって建設された中央のウツェは6階建てで高さ約12m、地上からだと約24mにもなる。このウツェの中にはペマ・リンパの遺体が保管されている。この中庭の向こうに大小二つの広間を持つ別のウツェがあり、小さい方の部屋は初代国王ウゲン・ワンチュクが JCホワイトから1905年に KCBE の称号を受けた場所でもある。隣接する中庭にはマチン・ラカン Machin Lhakhang という仏堂 chapel があり、そこにはガワン・ナムゲルの遺体が納められた金銀の棺がある。この棺はブータン政府とジェ・ケンポの印で封印されていて、開けることができないようになっている。マチン・ジンポン Machin Zimpon とマチン・シンポン Machin Simpon の二人の世話係のラマ以外にはジェ・ケンポと国王しかこの部屋には入ることができない。


この中庭の向こうにはさらに大きな庭があり、その中央には100の柱を持つ部屋がある。第二代デシ、テンジン・ドゥクパ Tendzing Drukpa が建立したもので、ナク・ユル・ブム Nag Yul Bum という二階建ての寺院も建設した。伝統によると引退したジェ・ケンポは洞窟での瞑想で余生を過ごすのだが、その前にこの寺院で一、二日過ごすことになっている。


1720-30年ゲルツェン・ガワン・ギャツォ Gyaltsen Ngawang Gyatso はポチュ、モチュの両方にカンチレバー式の橋を設置した。また、108巻の金文字で書かれたチベット大蔵経仏説部 kanjur [bka' 'gyur] をゾンに奉納した。1744年第十三代デシ、シェラプ・ワンチュク Sherab Wangchuk は対立していたゾンポンのカルビ Karbi を倒したことに感謝して、寺院をゾンの中に建設した。そこには金の仏陀像、グル・リンポチェ像、シャブドゥン像が安置された。また、幅33mもあるシャブドゥンのトンドル Thong dol chen mo を奉納した。また、ダライ・ラマ七世ケルザン・ギャツォ Kelzang Gyatso から送られた真鍮板によってゾンの屋根を葺きなおした。


歴史あるゾンであり、川の中州という立地条件から、プナカ・ゾンはたびたび災害に見舞われてきた。1792年の火災では、重要な書物が焼失。デシのソナム・ゲルツェン Sonam Gyaltsen が修築し、ラマ・ラカン Lama Lhakhang (シャブドゥンの遺体を納めた所)、ゲンカン・チェンボ Goenkhang Chhenpo (マハーカーリ、マハーカーラーの寺院)、ナゲ・テスム Nange Tesum (聖人の遺物を納めた所)を増築した。
1800[1802?]年、第二十二代デシ、ドゥク・ナムゲル Druk Namgyal の支持者の放火により再度焼失した。これは元デシのソナム・ゲルツェンの支持者がドゥク・ナムゲルを暗殺したことに端を発しており、これを期にソナム・ゲルツェンはデシの職に復活し、ゾンの修築活動を行った。


第四十六代デシ、カギュ・ワンチュク Kagyued Wangchuk の時、1864年の洪水により、また1897年には地震で上流の氷河湖が決壊し、大きな被害を受けた。プナカ・ゾンポンは重要職で、国内への影響力は甚大であることからゾンの掌握も権力争いの重要な要素として認識されたための被害である部分が大きい。1952年初の国民議会がここで開催され、冬期はジェ・ケンポが滞在し、執務を行っている。


ゾンの歴史

ゾン・チュ建設
1636 シャブドゥン・ガワン・ナムゲルによって基礎が建設
1676 ゲルツェン・テンジン・ラプゲがウツェを建設、金のドームを設置
1720 ゲルツェン・ガワン・ギャツォがポチュ、モチュに架橋。また、チベット大蔵経仏説部をゾンに奉納
1744 シェラプ・ワンチュクが寺院をゾンの中に建設
1789 火災、ジグメ・サンゲにより修築
1792 火災、ソナム・ゲルツェンが修築
1800 [1802?]、放火による火災、ソナム・ゲルツェンが修築
1831 火災
1849 火災
1864 洪水
1897 地震で上流の氷河湖が決壊し、流失
1905 JCホワイトがウゲン・ワンチュクに KCBE を授与
1952 初の国民議会が開催
1960 洪水
1994 洪水
1986 火災によりジェ・ケンポの部屋を焼失
2000 修築作業終了
2001 ランジュンカルサパニ盗難騒動