ブータンの南部問題って?


 「南部問題 Southern Problem」とは、1990年にブータン南部地域で起こったネパール系住民とチベット系住民の対立・暴動と、それに伴うネパール系住民の「難民」化が中心となった民族問題である。ここでは、南部問題の背景の解説と簡単な経緯について書いてみたい。


 この問題の直接的な原因は、ブータン国内のネパール系住民急増を1988年の全国人口調査(センサス)で認識したブータン政府が、民族衣装着用などの社会生活全般にわたるさまざまな国民統合政策を通して、ブータンという「国家としてのアイデンティティ」を確立しようとしたことに始まるとされている。この政策は当然ネパール系住民とチベット系住民の間に確執をうみ、1988年4月、ブータン南部出身で王立諮問委員会のメンバーであるテクナト・リザルとB.P.バンダリが、「南部地域は不穏な状態にあり、人口調査の方法および1985年国籍法の遡及性について改善策を講じて欲しい」という主旨の14条からなる請願を国王に提出した。しかし、この行動により逆にテクナト・リザルらはツァ・ワ・スム(国体)に対して反抗的であり、ネパール系住民を煽動しているとして逮捕された。この事件によって、テクナト・リザルはブータン民主化」運動のシンボルとして、急速に祀り上げられていくことになる。


 ブータン南部では、1990年年初から犯罪が多発し、政府はこれを反政府活動家の仕業だとし取り締まりを開始した。1990年半ばになるとブータン人民党の反政府活動家が、殺人や一般市民、センサス調査員、政府役人の誘拐といった犯罪活動に走り始めた。1990年9月から10月にかけて、ディクラム・ナムジャ(伝統文化や礼儀の規範)重視などのチベット系住民の文化の優遇措置に不満を持った一部のネパール系住民によって、王政打倒・民主化要求をスローガンとした反体制デモが行われ、デモは次第に暴動へと発展した。南部5県で参加者18,000人にのぼったこの大規模なデモは、基本的には平和裏に進んだと言われているが、センサス調査記録の破壊、囚人の解放、国旗の焼却、役人や学生のゴ(民族衣装)を脱がせるなどの暴力行為へとエスカレートしていった。デモの平穏を強調する資料もあるが、その後の混乱を考えると、それはデモ隊による暴力、破壊行為を過小評価しているだろう。これ以降、ネパール系の反体制グループ(非合法政党)がテロ活動へと走るようになり、南部地域の治安は急速に悪化した。また、ネパール王政の崩壊に伴い、当時抬頭していたネパールの左翼民主化勢力がブータン国内のネパール系住民に対して反王政運動を示唆したという可能性も考慮すべきだろう。


 テクナト・リザルは、「1990年9月19日の民主活動家集会でブータン政府が327人を殺害し、多くの負傷者を出し、ブータン人民党が政府の攻撃の対象になっている」と主張している。この事件はネパールのマスコミを通じて日本を含む世界各国で報道され、南部ブータン問題が国際的に表面化したのはこれがきっかけだった。しかし、この事件に関する報道は続報がなく、プロパガンダに基づいた虚報であるとする意見もある(今枝氏の著作を参照のこと)。また彼は、「ブータン国内に2,500人以上の政治犯が収容されており、プナ・ツァン・チュ(サンコーシュ)川には虐待で死亡した人々が浮かんだ」という証言もあると主張している。これに対しブータン政府は、「仮に327人もの死者が出たとすれば隣国のインドが気付かないわけがないとし、政治犯も1989年10月から12月までで42人のみであり、それらは反政府活動に従事した者だ」と反論した。


 ブータン政府による取り締まりに対するネパール系反政府団体のテロ活動による混乱や暴動から逃れたネパール系住民は、反政府団体の主張に従い、インドを通ってネパールへと避難し、ネパール東部に「難民キャンプ」を設立した。この「難民流出」は、1990年12月19日に最初のブータン「難民」が確認されたところに始まる。「難民」は1991年初めから流入数が増加し、1992年にピークを迎えたといわれている。最初のキャンプは1991年3月にジャパ県にあるマイ川の堤防沿いに作られたマイダールだったが、1991年7月に撤収され、続いて1991年10月にティマイに、1992年3月にパッタリ、同年5月にベルダンギ、同年6月にゴルダプに次々とキャンプが設立された。こうして、1993年にはネパール東部のジャパ県に5ヵ所、モラン県に1ヵ所「難民キャンプ」が設立された。1995年、8ヵ所が「難民キャンプ」として指定されている(UNHCR資料)。「難民」人口は初期の資料によると、1992年6月27日の時点で54,331人。同年1月末に15,459人であったことを考えると、1992年前半に「難民」が急増していることがうかがえる。1993年3月の時点では75,000人 、1995年から1996年にかけての報道では、その数は約9万人にのぼった。


 ネパール東部にブータンからの「難民」が急増していることを受け、1991年8月にギリジャ・プラサド・コイララ首相は「ブータン難民」を主張するジャパ州に滞在する人々に対してのUNHCRの援助を要請した。1991年10月、コイララ首相はBBCのインタビューを受け、ブータンの政治体制を「独裁的」と称し、自ら1950年代初頭にブータン国家会議派BSCを組織したと明らかにし、「ブータンが独裁体制から自由になるべきであるとわれわれは考えた」と語った。そして、反体制派への人道支援については「数日前に彼らに政治的避難場所を与えた。われわれもネパール独裁体制の犠牲者であり、彼らに人道支援を与えるのは当然のことである」 と主張し、ブータン国内に衝撃を与えた。1991年12月、ブータン国王はコイララ首相とコロンボで会見し、ブータン「難民」を主張してネパール東部に流入した人々が6,000人を超えたという報告を受けた。国王は「無償援助を当てにした貧しいネパール系住民がネパール東部のキャンプに集まる結果になる」と主張し、ブータン「難民」を主張する者をネパールに入国させないようネパール側に要請した。しかし首相は国内の政治的配慮から、ブータン国王の要請を拒否した。


 1992年3月、ネパールのナレンドラ・ビクラム・シャハ外務次官がコイララ首相の命を受けてブータンを訪問した。外務次官は30から40台のトラックに乗って人々が毎日ネパールに到着していることを報告し、「彼らを途中で車から下ろしたり、家畜のように移動させることはできない」と語った。国王は次官に「ネパール国境までサルパン県から341km、サムドゥプ・ジョンカルから495km、サムチから141kmもあり、ブータンは小国であるから国外における管轄権は持っていない。政府が毎日30から40台のトラックいっぱいの人を送ることはできないし、ネパールへ行く途中で下車させることもできない」と語った。同年8月10日には、コイララ首相が日本人記者団との会談でブータン「難民」が5万人を超し、一日に300から400人の割合で増加していることに言及した。


 1992年11月、ブータン国王はダワ・ツェリン外務大臣カトマンドゥに送り、翌年バングラデシュダッカで開かれるSAARC首脳会議でコイララ首相との会談実現に向けた調整作業を行った。1993年4月9日、ブータン国王とコイララ首相はダッカで会談を行い、閣僚級の合同委員会を設置し、ネパールの難民キャンプにいる人々の身分を明確にすることに同意した。しかし合同記者会見が行われたにもかかわらず、ネパール代表団は提案された両国による合同委員会が難民の身分を確定する作業を省略することを要求し、「難民の帰国」のみを調整するべきだと新たに主張した。ネパール側の難民問題への対応が一貫していないことがこのような点からもうかがえる。この後、ネパール側の主張は短期間で交替する政権ごとに二転三転し、協議の進展に影響することになったことは、あまり触れられない。コイララ首相は帰国後、今後いかなる二国間協議の可能性をも棄却し、ダッカにおいてブータンが会談を中断したことを一方的に非難した。しかし二週間後、彼は再び態度を一転させ、二国間協議を歓迎する意向を発表した。ブータン国王はこのコイララ発言を歓迎し、ティンプーへのネパール閣僚級代表団派遣を要請した。1993年6月ブータン国王の要請から1年半後、ようやくネパール政府はUNHCRと協力して、「ネパール国境のカカルビッタでブータン難民を主張する人々」への対面調査を開始することを発表した。


 最初の「難民」が発生してから2年が経過した1992年11月、「難民」問題についてブータンとネパールの間で話し合いがもたれ、1993年7月には共同宣言が発表された。共同宣言では両国の内務大臣による「難民」問題解決に向けた閣僚級合同委員会を設置し、内相会議を定期的に開催することが決定された。1993年10月、第一回ネパール・ブータン内相会談がカトマンドゥにて開催された。この会議ではブータン政府の提案によりキャンプに収容されている「難民」を4つの集団に分類することが決定された。会議は定期的に開催されたが、両国の主張に妥協点が見出せず、ネパール側の対応も一貫しなかった。1995年4月17-20日、第六回閣僚合同委員会がティンプーで開催された。この席でネパール代表団は「難民キャンプのすべての人々をブータンに送還すること。そしてこの問題はブータン政府と難民の間のものであること」を新たに主張し譲歩しなかったため、これ以降会議は無期延期の状態になった。


 この膠着状態を打破するため、1995年5月3日、ブータン国王とネパールのアディカリ首相はニューデリーで開催された第八回SAARC首脳会議で別途個別会談を行った。ここでブータン国王は両国政府が「難民」を四つに分類することに対する協調関係を示した書類がネパールの閣僚合同委員会のメンバーによって合意されていることをネパール首相に説明した。そしてネパール側による修正案に対してブータン側も理解を示した。アディカリ首相はこの問題に関して理解を示し、討議のうえ回答することを約束した。1996年1月30日、ブータン政府は閣僚合同委員会による二国間協議を外務大臣レベルで再開することを提案したシェル・バハドゥル・デウバ首相の書簡を受け取った。翌日ブータン国王はネパール首相の書簡に対して、外務大臣級の閣僚合同委員会を開催することに歓迎の意を示したが、カトマンドゥで開催される予定だった第七回合同委員会はネパールの政治状況の変化により実施されなかった。


 このような状況に業を煮やした「難民」は、1996年1月よりブータンを目指した平和行進を開始した。この活動は請願運動調整委員会によって指揮されたが、この行進に対して反対の姿勢をとる反政府組織もあり、「民主運動のためのブータン人連合」が新たに結成されるという事態になった。このように「難民」の主張や立場は統一されているわけではなく、内部分裂も頻繁で、平和行進に対してもすべての「難民」が賛成しているわけではないのが現状であったようだ。1996年1月17日に西ベンガル州警察は、インド刑法第144条により150名の平和行進参加者と16名のインド人人権活動家を逮捕したため、国際的な関心を集めた。しかし裁判所の判断は、インド国民を対象にした刑法第144条をブータン人に適用するのは違法であり、ブータン人は1949年のインド・ブータン友好条約によりインド領内の移動の自由が認められているというもの(つまり無罪)であった。しかし、インドは逮捕した「難民」の釈放と再逮捕を繰り返し、「難民」問題に対する無関心を徹底することができなかった。


 国際社会、とりわけ人権問題に敏感な欧米がこの問題について注目し始めたのもこの頃であり、「難民」団体やネパール政府も欧米諸国の干渉を期待していた節がある。つまり外圧による問題の解決が「難民」側に有利に働くだろうと読んだのである。それよりも以前に、ブータン政府はUNHCR代表団や赤十字の代表団を招待し、国内の現状を調査させていたが、「難民」の平和行進とインド領内での逮捕を受けて、1996年3月15日、欧州議会ブータンに対して、「難民の帰国のために実質的な手段を講じ、国内少数民族の権利を保護すること」を要求し、満場一致でこれを採択した。これに対して、ブータンは11月中旬に欧州議会調査団の視察を受け入れた。その後、ネパール外務省との会談に臨んだフランス人団員のフェルディナンド・ル・ラシネルは「東ネパール難民キャンプの多くはブータン人ではない」と発言した。また、イギリス人のアニタ・ポラック団長も、「両国はこの問題を二国間で協議すべきで、われわれ調査団は干渉しない」と発言している。これらの発言は明らかに欧州議会で採決された要求からは一歩後退したものである。欧州議会は調査団を派遣した結果、ブータンに対して同情的になったと考えられ、外圧の利用は結果的にうまくいかなくなってしまった。


 その後、ネパールとブータンの間では水面下での協議が数回持たれたが、両者の主張は平行線を辿り、妥協点が見出せないまま膠着状態が続いていた。しかし1999年9月13-16日、ついに第八回閣僚級合同委員会がカトマンドゥで再開された。ブータンはUNHCRが作成した3,000人の「難民」名簿を信頼できないとしてその分類を行うことを提案、しかしネパールはそれを拒否し、まず一つの「難民」キャンプから「難民」認定作業を開始することを提案したため、分類作業に関しては合意に達しなかった。


 2000年12月25-28日、第十回閣僚級合同委員会がカトマンドゥで開催され、ジグミ・ティンレイとチャクラ・プラサド・バストラ両外相の間で「ブータン=ネパール合同難民認定チーム」の設立を決定し、ブータン側はソナム・テンジン内務省局長、ネパール側はウシャ・ネパール内務省合同秘書官が代表に就任した。「難民」認定作業は2001年3月26日から開始され、ジャパのクドゥナバリ「難民」キャンプに住む98,886人の聞き取り調査と確認から着手することになった。「難民」問題から10年、ついに問題解決の糸口が見えた瞬間であったが、 ネパール側はこの時期の急速な進展を、(1) 9月の欧州議会決議 (2) 2000年11月7-9日に開かれたブータン援助国会議参加国のこの問題に対する関心 (3)アメリカ合衆国のこの問題への関心 という3点からブータンが国際社会の圧力に屈した結果と見ている。2001年8月20-23日には第十一回閣僚級合同委員会がティンプーで開催され、ジグミ・ティンレイ外相とラム・シャラン・マハット財相の間で会談が持たれた。ここで、両国は10月以降クドゥナバリ「難民」キャンプの人々の帰国を開始することに同意したが、ネパールが主張した「分類項目の縮小(自発的に出国したブータン人と犯罪歴のあるブータン人を廃止)」をブータンは拒否した。認定作業はクドゥナバリ「難民」キャンプ終了後、他のキャンプにも着手することとし、作業効率を現在の二倍のスピードにすることに合意した。


 この問題に対して、とりわけマスコミの報道は「ブータン政府がネパール系住民を弾圧し、国外退去に追いこんでいる」、「王政・専制君主制は民主的ではなく、難民は被害者でしかない」という画一的な内容ばかりが紹介される。その上、情報源に偏りがあったり、当事者双方のプロパガンダの一方を検証せずに報道している感情的なものが多い。ブータン政府が加害者で、ネパール系住民が被害者なのだという単純でわかりやすい構図には注意深く接する必要があるだろう。それに、マスコミ報道によりプロパガンダが新たな「真実」にすりかわる現象も否定できる状況には無い。このような問題はブータンに限ったことではないが、ブータンについては(小国であるが故の)専門家の不在と資料不足による取材者の主観に基づいた偏向報道が容易であるという問題点がある。そして、それを検証することもまた、困難な状態である。


 鎖国同様の状態であったブータンの国際社会参加は1962年から始まり、1980年代においても世界の中における「ブータン」という国家の位置付けや「ブータン人であることはどういうことか」というアイデンティティの形成がブータンの人々の間に確立できていたとはいえない。また地政学的に見ても、インドと中華人民共和国というアジアの二大国に囲まれるブータンは、文化的にいずれかの国に併呑されてしまうのではないかという危惧を常に抱いている。これはインドとシッキムの関係、中国とチベットとの関係を考えれば、杞憂だと笑っていられる問題でもない。大国の狭間に位置する小国が独立を維持していくためには、国家としてのアイデンティティ形成が不可決な要素であるが、多民族国家であるブータンにおいて、特定民族の文化習慣をもって国家としてのアイデンティティ強化を進めようとした矛盾がこのような民族問題として噴出したのかもしれない。■