ブータンの国名の由来


(1)正式国名ドゥク・ユル(Druk Yul)以前の名称

旧時、ブータンを含むこの地域は、チベットでは「ロ・モン Lho Mon の国」、つまり「モンの南の国」、または「ロ・モン・カ・シ (Lho Mon Kha Zhi)」 (4つの入り口を持つモンの南の国)と呼ばれていました。 つまりブータンは「仏教に教化されていない未開の地域」 (ロ:南、モン:暗黒)だったのです。


急峻なヒマラヤ山脈、深い峡谷、密林など、ブータンは周囲を苛酷な自然条件により守られた天然の要塞でした。ブータンに入国する最適なルートは4つの四方に一つずつしかなかったのです。これが、「カ・シ」の意味です。東は、ドゥンサムカ Dungsamkha(現在のカリン・ペマガツェル)、西は、ダリンカ Dalingkha(現在のカリンポン)、南は、パグサムカ Pagsamkha(クーチビハールのブクサ)、北は、タクツェカ Tagtsekha(現在のリンシ付近)でした。


「ロ ジョン(Lho Jong)」とはチベット語で「南部地域」という意味です(ゾンカでも同じです)。つまりチベットから見て南に位置するブータンを指して言うときに使われました。未開の地(モン)という言葉が使われなくなったこの名称には「チベット仏教が普及し教化された」という意味が含まれていると考えられます。


この他に森林資源が豊富だったブータンは、「ロ・ジョン・メン・ジョン(Lho Jong Men Jong)」「ロ・モン・ツェンデン・ジョン(Lho Mon Tsenden Jong)」といった名称でも呼ばれました。ロ・ジョン・メン・ジョンは「薬草の国」、ロジョンツェンデンジョンは「イトスギの国」といった意味です。


(2)正式国名ドゥク・ユル

ドゥク・ユル(Druk Yul)とは「龍の国」を意味します。アルファベットの英語読みに引きずられて、ドゥルックと表記することが一般的ですが、チベット語のdrは1つの子音なので、あえてこの表記を使うことにします。さらに原音に近く表すとすれば「ドゥッ・ユー」でしょうか。


この命名には次のような伝承があります。


12世紀末、高僧ツァンパ・ギャレ・イシェ・ドルジが、中央チベットに新しい寺を建立していた時、虚空から突然雷鳴が轟きました。雷は龍の鳴き声であるとされていたので、これにインスピレーションを得たドルジは、この寺を「ドゥク」と命名しました。後に、彼が開祖となった宗派はドゥク派と呼ばれるようになります。(ドゥク派チベット仏教カギュ派に属します。)


17世紀以降、ブータンはこの宗派の下に統一されたので、国名をドゥク・ユル(雷龍[=ドゥク派]の国)、国民をドゥク・パと自称するようになりました。また、中国の清朝の資料などには、ブータンについて「布魯克巴(Bu lu ke ba)」、「竹巴(Zhu ba)」と書かれており、ドゥク・パと呼ばれていた(または、チベット人がそう呼んでいた)ことがわかります。「布魯克巴」はドゥク・パのチベット語表記 'Brug pa をそのまま読んだもの、「竹巴」はチベット語の音声を転写したものです*1



(3)ブータンの語源

 ドゥクが北方由来の名称であるのに対して、ブータン(Bhutan)という言葉は南方由来の名称です。この言葉の語源にはいくつかの説があり、統一見解はありません。中でも、以下の3つの説が有力です。

  1. サンスクリットのBhota ant(ボトの端)
  2. Bhu-uttan (高地)
  3. Bhot-stan (ボタ人またはチベット人の国)


 Bhotは「チベットの自称 Bod」に通じ、チベット人を表す表現だったようです。また、19世紀の文献では、Bootan, Boutan, Boutanner などと書かれていることもあります。


関連項目
ブータン」ということばをヨーロッパ人が最初に目にしたのはいつなのか?

 
 
 

*1:注:チベット語のそり舌音は、中国語では捲舌音で転写されます。また転写の際、語尾にd, k などがくると入声音の漢字を選択する傾向にあります(ここでは「竹」がそれに当たります)。

 ヨーロッパはいつから「ブータン」を知っているのか


クエンセル 2003-08-23より


(注:要約したため、意訳、追加、省略した部分があります。)


(1)本来、ブータンチベットを表すことばだった?


ブータンが西洋の地図に最初に現れたのはいつかという調査が2年前ロンドン最大の地図店にて開始された。そして発見されたのは、1683年の北インドの地図で、現在のブータンの位置には“Regno di Boutan”(ブータン王国)という文字が書かれていた。


◆“Bhutan and Tibet in European Cartography: 1582-1800”(ヨーロッパ地図学におけるブータンチベット 1582-1800)という論文によると、イタリア人地理学者ジャコモ・カンテリ・ダ・ヴィグノラGiacomo Cantelli da Vignolaが作成したこの地図の内容の多くは人々を困惑させた。例えば、ネパールという地名が1ヶ所だけでなく2ヶ所に、しかも、遠く離れた場所にある。この地図で、ブータン(Boutan)は17世紀にヨーロッパで「コーカサス山」として知られていたヒマラヤの北部(南部ではなく)に位置している。しかしながら、その当時までにブータンを訪れた、唯一のヨーロッパ人(イエズス教会神父のCacellaとCabralが1627年に訪問)は、この国を「カンビラシCambirasi」、「ポンテPotenteの最初の王国」、「モン」などと書いていたのである。では、イタリア人地図学者はどこからBoutanという名前を手に入れたのだろうか。


◆ある研究者によると、カンテリの(使用した)主要資料は、アジアにおける最も裕福かつ有名なヨーロッパ商人の一人であるジャン・バプティスト・タヴェルニエJean Baptiste Tavernierの書いたベストセラー旅行書、“The Six Voyages into Persia and the East Indies”(ペルシャ東インドへの6度の旅行)であったと指摘している。1676年に初めてフランス語で出版されたこの本には、ブータン王国(The Kingdom of Boutan)という部分があり、以下のような記述がある:

「この神秘的な国は広大な面積を持ち、インドから離れたところ、つまりネパール王国の山々の向こう側に位置している。そして、オスマン帝国バルト海沿岸などの遠方から訪れる裕福な商人が頻繁に出入りしている。ブータン国王ほど臣民に畏れられ尊敬されている国王は世界中どこにも存在せず、崇拝すらされている。」

◆17世紀中葉のヒマラヤ地域の地理や歴史に通じているものであれば、タヴェルニエがここで説明している内容は、「ブータンとシャブドゥン」の関係というよりはむしろ、「チベットダライ・ラマ」の関係であるとわかるだろう。カンテリの地図にある「ブータン王国」とは実際は「チベット」を示していることは明らかである。換言すれば、ブータンとはチベット全域の別名であり、同義語であるだけでなく、カシミールからベンガルまでの北部インド一帯を指すことばであったと言える。さらに、タヴェルニエはラサを首都であるとは一度も言及しておらず、カンテリも他のヨーロッパ人地図製作者達も詳細については不明確なままであった。


(2)ヨーロッパ人はいつブータンということばに出会ったか

ブータン(Boutan)に良く似た名前(Bottan, Bottanter)は1580年代頃にヨーロッパに現れ始めた。それは、敬虔で肌の色の薄い山岳民族が住んでいるとされる北インドの大国について言及する場合であった。この新しく発見された国(Bottanthis)の紹介は1597年にイタリアで出版された書籍や地図に見られる。当時の多くのヨーロッパ人がこの国のことをプレスター・ジョン(中央アジア中心部のどこかに住むとされた伝説上の僧であり王)の失われたキリスト教国だと考えていた。この忘れられたキリスト教徒との関係を再構築しようという希望は、たくさんのイエズス会神父を1620年代にチベットや現在のブータンに送り込むことに繋がった。


◆1700年から1770年代の間はブータン(Boutan)という名前は、チベット(もしくはラサ王国)全体を表す「別名」として、ヨーロッパにて発行された複数の主要なアジアの地図に確認される。これらの中で最も重要かつ詳細な地図(1733年出版)ですら、General Map of Thibet or Bout-tan(チベットまたはブータン全図)というタイトルであったことからも、それは明らかである。18世紀前半にはイタリア人布教団がラサに居住し、はっきりと現在のブータンなどの現地名に言及した多くの報告書や手紙を書いていたにもかかわらず、これらの文書は文書館で失われてしまったらしく、地図作成者のところには届かなかった。つまり、1770年代まで現在のブータンはヨーロッパ製の地図に出現することはなかったのだ。そしてブータンという名前は、ブルクパBroukpaという名前で、チベット全域を一人で旅行した(現在のブータンには入域せず)18世紀初期の「探検家」、サミュエル・ヴァン・プットSamuel van Putteによって1730年ごろ描かれた美しいスケッチ画の地図に現れた。残念ながらオランダの博物館に保管されていたオリジナルは第二次世界大戦にて焼失し、現在はその複製しか見ることができない。


(3)チベットブータンの違いはヨーロッパ人にいつ認識されたのか

◆では、ドゥク・ユルは、いつ現在の西洋式の名前を手に入れたのだろうか?それは、ボーグルの通商代表団がタシルンポ寺にてデブ・ラージャ及びパンチェン・ラマと会見した1775年以降だと考えられる。なぜなら、1774年のボーグルに対する指令で、東インド会社総督のウォーレン・ヘイスティングスはまだチベットのことをブータンと呼んでいたし、ボーグルも最初のうちはこの2つの名称を混用していた。デブ・ラージャによって1774年の雨季のティンプーに4ヶ月留め置かれた後、ボーグルはブータンの政治的、文化的、宗教的特徴に対して明確な認識を持つようになった。パリPhari付近の国境を越えるとき、彼は(チベットとは)別の国にいるという認識を持つようになったのだ。パンチェン・ラマの邸宅に長期滞在することで、ボーグルは自分が2つの異なる国を訪問したことを確信した。最終的にボーグルがベンガルに戻ったとき、彼は総督に最終報告書を提出し、デブ・ラージャの国をブータン、高原の広大な国をチベットと正式に呼ぶことを提案した。


東インド会社の初代主席調査官であるジェームズ・レンネルJames Rennellは、ドゥアール地区を分割した人物でもあるが、直ちにこのボーグルの提案を受け入れた。フランス語綴りのBoutanを英語綴りのBootanにしたのはレンネルが最初である。そして、彼の作成した地図にてヒマラヤ山脈の南部をチベットから分け、ブータンとしたのも彼であった。ボーグルがブータンを「発見し、そう名付けた」のであれば、レンネルこそが、膨大な公式地図を1780年から1800年の間に発行することで、ヨーロッパにこの新しい国の存在を認識させた人物だといえるだろう。そしてこの時期、ブータンはヨーロッパ人にとって、「ベ・ユル(隠された国)」ではなくなったのだ。■
 
  
 
 

 ディグラム・ナムジャって何?


1989年1月に始められたディクラム・ナムジャは、ブータンにおける「伝統」的な生活において守らなければならないさまざまな規律の総称で、チベット系伝統文化復興運動の側面が強いものでした。一般的に語られる場合は、チベット系民族衣装の公共の場での着用と礼儀作法いう面に焦点があてられることが多いです。着用を義務付けた民族衣装は男性用が ゴgho、女性用が キラkira と呼ばれるもので、ゴは日本のドテラを思わせる形状をしており、キラは一枚の布を体に巻きつけるインドのサリーを思わせる形状をしています。


しかしこれも誤解の多い政策で、人権団体や難民は、「国民全員にいかなるときもチベット系民族衣装を着用させ、それ以外の民族文化を無視している」と主張していますが、本来これはチベット系住民、とくに青年層の西洋化を憂慮した政府の政策として実施された*1もので、少数民族の同化促進を第一義として画策されたものではないということを語る人々は少ないです。

*1:増子義孝, 伝統守り自立へ懸命――ブータン, 朝日新聞朝刊, 東京, 1988.6.10., p.6.

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 パロ・ゾン Paro Dzong

bhutan2006-04-09



パロ・ゾンは、パロ・チュ Paro Chhu 沿いにその勇姿を誇る美しい建築物である。ゾンの前身はパジョ・ドゥゴム・シクポの子孫ラマ・ドゥン・ドゥン Lam Drung Drung が建てたフンレ(ル)・ゾン Hungrel Dzong という小さなゾンである。ガワン・ナムゲルがパロにやってきたときに、ラム・ドゥン・ドゥンの子孫によって彼に寄進された。ガワン・ナムゲルは1646年、その場所に新たに大きなゾンを建築した。この目的の一つには、ドゥゲ・ゾン経由のチベット交易路の入り口を固め、チベットに対する防衛力強化があった。1905[1907?]年の大火により、重要文献とともに焼失したが、1908年以降パロ・ペンロプにより再建された。その際、カルサ・ラカン Karsa Lhakhang にあった等身大のパドマサンバヴァ、ブッダ、ガワン・ナムゲルの像が奉納された。幸いにもリンチェン・ゲデン Rinchen Geden 作の有名なトンドル(9m四方)は焼失を免れた(毎年パロ・ツェチュで公開される)。

パロ・ゾンはパロ・ペンロプの居城として権威の象徴であり、しばしば権力抗争の舞台ともなった。19世紀のワンチュク王朝成立前の権力闘争は、トンサ・ペンロプvsティンプー、パロ連合軍で行われ、トンサ・ペンロプの勝利を導き、ワンチュク王朝成立の足がかりとなった。タシチョ・ゾンの移築(1969年)以前は国民議会の開催地でもあった。


正式名称はパロ・リンプン・ゾン Paro Rinpung Dzong といい、「宝石の山」を意味する。五階建ての大きな長方形の周囲の部分と、七階建てのウツェの部分からなる。入り口は山の斜面側(東)にあり、三階に直接通じる形式になっている。

チベット最前線であることから、防衛面での工夫がなされており、ゾンへのアクセスは西側の木製の橋に限定されていた。非常時には橋を落として敵の侵入を防ぐ仕組みだ。また、地下道が準備されており、篭城時に有効活用されたといわれる。ゾンよりも山側には三つの監視所があり、三方を固めていた。その一つはタ・ゾン Ta Dzong と呼ばれ、現在は国立博物館として公開されている。ここには、アゲ・タムチュ Age Tamchu とトンサ・ペンロプ、ジグメ・ナムゲルが戦った際に息子で初代国王のウゲン・ワンチュクが幽閉されていた。


ゾンの歴史

ラマ・ドゥン・ドゥンがフンレル・ゾンを建設
1646 ガワン・ナムゲルが新ゾンを建築
1649 テンジン・ドゥクダがウツェを建設
1905 [1907?] 火災
1908 パロ・ペンロプにより再建

 

 タシチョ・ゾン Trashichhoe Dzong

bhutan2006-04-08



「輝かしい法の城砦」を意味するこのゾンは、ティンプーにあり、国王と王国の政治行政機能およびジェ・ケンポの夏季の住居として使用される。峰の頂上に建設される他のゾンと違い、谷の底に建設されている。ゾンの場所にはもともとド・ホン Do hon (青い石)と呼ばれる僧院が13世紀にチベットからやって来たパジョ・ドゥゴム・シクポによって建設されていた。1641[1642?]年、ガワン・ナムゲルがゾンへと改築し、タシチョ・ゾンと命名した。1730年にはチベットブータン平和条約がこの場所で調印された。1755年シェラプ・ワンチュク Sherab Wangchuk が再度増築したが、1771年、1869年と火災に遭い、その後1870年ジグメ・ナムゲルが修築し、寺院を併築した。


JC ホワイトはこの古いゾンを次のように形容している。

「…この平行四辺形の建物は、川に平行する二辺が他辺の二倍になっている。これが他のゾンと違っているところである。ゾンには2つの大きな入口が南側と川に面した側にある。西側と北側は堀で囲われている。南西の角には国王の現行の部屋がある。西側にはティンプー・ゾンポンの部屋がある。北側のゾンの一部はタ・ツァン ta tsang と呼ばれるラマが居住しており、一般には開放されていない。壁の上には白いチョルテンがあり、二重の屋根で風雨から守られている。中庭の中央部には非常に美しいウツェがある。6m2に少なくとも15mの高さがある。美しい壁画が描かれており、絹布で装飾されているが、ジェ・ケンポがプナカに移動している間はそれらの装飾も共にプナカへと移動する。西側に建てられた連なった仏堂は、それぞれが素晴らしいブータン建築の一例である。…」

新しいゾンは現国王により建設され、1969年に完成したが、JC ホワイトの語るものと同様の建築様式をいくつか踏襲している。中央のウツェはジェ・ケンポの住居であるが、古い建物である。ゾン全体で100以上の部屋を持ち、図面もなく、釘も一本も使っていないジョイント式で作られている(後の改修では釘が使用されている)。国王は重要な賓客を迎えるための美しい本堂を持つ。すべての閣僚はゾンで執務を行っている(一部の閣僚は現在SAARCホールで執務を行っている)。
国民議会の議会は北西の隣接する中庭にある大会議場で行われる。ツェチュの踊り、Dom-chu はメインの中庭で行われる。


ブータンの慣習により、日の出前、日没後のゾン内への女性の立ち入りが原則的に規制されているが、タシチョ・ゾンはこの決まりを1968年に最初に破ったゾンである。インディラ・ガンディー・インド首相が国王の招待客としてゾンに宿泊したのである。


仏教哲学によると、世界は球形ではなく、世界の中心は須弥山であり、この山はインディラ神の御座と信じられている。四人の守護尊はこの須弥山を守っているとされる。ゾン内の寺院には、悟りの境地に達した菩薩 Buddha-hood とされる地元のラマの像がたくさんある。女神(じょしん) Shakti を従えた大日如来も描かれている。仏壇には仏陀像が安置され、グル・リンポチェ、シャブドゥン、ラマ・カルマパ(カルマパの転生譜)などの像もある。現在のカルマパ(14世)はチベットから亡命し、シッキムに住んでおり、ブータンでも尊敬を集めている。


グル・リンポチェ像は真実を示すヴァジュラ(ドルジ)を持っている。ウツェの入口は密教美術で装飾されている。ゾンの北方には、デチェンポダンという小さな僧院がある。ここはティンプー・ゾンポンの夏の離宮であった。この僧院はよく整備されており、ティンプー・ゾンから派遣されたラマが管理している。ここには最初のシャブドゥンであるガワン・ナムゲルの像があり、彼の治世期に建設された。

ゾンの歴史

13世紀 ド・ホン・ゾンがパジョ・ドゥゴム・シクポによって建設
1641 [1642?]、ガワン・ナムゲルがタシチョ・ゾンに改築
1694 ゲルワ・テンジン・ラプゲが拡張
1730 チベットブータン平和条約がここで調印
1755 シェラプ・ワンチュクが増築
1771 火災
1869 火災
1870 ジグメ・ナムゲルが修築し、寺院を併築
1905 JC ホワイト ブータン訪問
1907 JC ホワイト ブータン訪問
1969 新ゾンが現在の場所に完成

 
 
 

 ワンデュ・ポダン・ゾン Wangdue Phodrang Dzong

bhutan2006-04-07



プーナ・ツァン・チュ Puna Tsang Chhu(サンコーシュ・チュ Sankosh Chhu)とダン・チュ Dang Chhu に挟まれた岩の上に聳える。1638-39年ガワン・ナムゲルによって建設された(1578年と推定する説もある)。ある日、彼は「眠る牛のような形のゾン」を作れば国中に平和が訪れるだろうとマイナプ Mainap という神の啓示を夢の中で受けた。それに基づき人々にゾンの建築場所を選定させていたとき、四匹のカラスが四方に飛び去って行ったのを見て、そのカラスが飛び立った場所が最適な建設場所として選ばれた。カラスが四方に飛ぶということは、宗教がすべての方向に広がって行くことを暗示していると解釈されたためである。大きな本堂には仏陀像、グル・リンポチェ像、シャブドゥン像があり壁面には仏教譚が描かれている。外壁には六道輪廻図 Srid pal Khor lo (Bhavachakra:Wheel of life) が描かれている。最初のゾンの管理者チョジ・ナンカ Choji Nangkha はゾン内部の寺院に金の屋根を追加した。 1837年には火災に遭い、修築が行われた。1897年には大地震により甚大な被害が発生した。


このゾンはプナカと近接していることから、重要性が増した。ワンデュ・ゾンポンはデシの支持者によって任命され、歴史的にもトンサ、パロに続く第三のリーダーとしての役割を担った。ここにはかつてブータンで最も美しいと言われた橋があった。この橋は300年前にラマ・ソプロ Lama Soproo が架けたといわれる。この橋は金属を一切使用していなかったが、1968年の洪水で流失し、現在はベーリー橋が残るのみである。


ゾンの歴史

1638 ガワン・ナムゲルによって建設(1578年とする説もある)
1837 火災、修築
1897 大地震
1968 洪水で橋が流失

 
 
 

 プナカ・ゾン Punakha Dzong

bhutan2006-04-06



標高1,350mと低く、亜熱帯植物も多く見られるプナカは、1955年にティンプーが恒久首都になるまでの300年間、冬の首都として機能した。タシチョ・ゾンの僧侶は現在でも冬になるとプナカ・ゾンに移動する。プナカ・ゾンはブータンで二番目に建設されたゾンであると言われる。1636-7年シャブドゥン・ガワン・ナムゲルによってポ・チュ、モ・チュの合流点の中州に基礎が建設された。それ以前にはゾン・チュ Dzong Chu と(小城砦)いう小さなゾンが、現在のゾンの前に建てられており、釈迦像が安置されていた。大工のパレプ Palep がその仏像の前で眠ったとき、現在のゾンのデザインを夢の中で啓示されたといわれ、サンドペルリの再現とされる。完成後、パレプは トゥビゾ Tubizo という称号を授かった。


別名プンタン・デチェン・ポダン Pungthang Dechhen Phodrang [spungs thang bde chen pho drang] (偉大なる幸福の宮殿)。ガワン・ナムゲルはチベットから亡命する際に、宝物であるランジュン・カルサパニを奪ってきたため、1639年以降数回チベットからの襲撃を受けた。後にチベット・モンゴル連合軍撃退を記念してガワン・ナムゲルは護法尊を拝するための祠を建設した。この時に奪取したチベット軍の武器はすべてゾンに納められている。また、この故事はプナカ・ドムチェという早春の祭りで再現される。


入口の階段は木製で非常に急である。長さは6m。これは戦争などの緊急時にいち早く取り去ることができるように考案されたものである。夜間は入口を閉める。1676年にプナカ・ゾンポンのゲルツェン・テンジン・ラプゲ Gyaltsen Tenzing Rabgye によって建設された中央のウツェは6階建てで高さ約12m、地上からだと約24mにもなる。このウツェの中にはペマ・リンパの遺体が保管されている。この中庭の向こうに大小二つの広間を持つ別のウツェがあり、小さい方の部屋は初代国王ウゲン・ワンチュクが JCホワイトから1905年に KCBE の称号を受けた場所でもある。隣接する中庭にはマチン・ラカン Machin Lhakhang という仏堂 chapel があり、そこにはガワン・ナムゲルの遺体が納められた金銀の棺がある。この棺はブータン政府とジェ・ケンポの印で封印されていて、開けることができないようになっている。マチン・ジンポン Machin Zimpon とマチン・シンポン Machin Simpon の二人の世話係のラマ以外にはジェ・ケンポと国王しかこの部屋には入ることができない。


この中庭の向こうにはさらに大きな庭があり、その中央には100の柱を持つ部屋がある。第二代デシ、テンジン・ドゥクパ Tendzing Drukpa が建立したもので、ナク・ユル・ブム Nag Yul Bum という二階建ての寺院も建設した。伝統によると引退したジェ・ケンポは洞窟での瞑想で余生を過ごすのだが、その前にこの寺院で一、二日過ごすことになっている。


1720-30年ゲルツェン・ガワン・ギャツォ Gyaltsen Ngawang Gyatso はポチュ、モチュの両方にカンチレバー式の橋を設置した。また、108巻の金文字で書かれたチベット大蔵経仏説部 kanjur [bka' 'gyur] をゾンに奉納した。1744年第十三代デシ、シェラプ・ワンチュク Sherab Wangchuk は対立していたゾンポンのカルビ Karbi を倒したことに感謝して、寺院をゾンの中に建設した。そこには金の仏陀像、グル・リンポチェ像、シャブドゥン像が安置された。また、幅33mもあるシャブドゥンのトンドル Thong dol chen mo を奉納した。また、ダライ・ラマ七世ケルザン・ギャツォ Kelzang Gyatso から送られた真鍮板によってゾンの屋根を葺きなおした。


歴史あるゾンであり、川の中州という立地条件から、プナカ・ゾンはたびたび災害に見舞われてきた。1792年の火災では、重要な書物が焼失。デシのソナム・ゲルツェン Sonam Gyaltsen が修築し、ラマ・ラカン Lama Lhakhang (シャブドゥンの遺体を納めた所)、ゲンカン・チェンボ Goenkhang Chhenpo (マハーカーリ、マハーカーラーの寺院)、ナゲ・テスム Nange Tesum (聖人の遺物を納めた所)を増築した。
1800[1802?]年、第二十二代デシ、ドゥク・ナムゲル Druk Namgyal の支持者の放火により再度焼失した。これは元デシのソナム・ゲルツェンの支持者がドゥク・ナムゲルを暗殺したことに端を発しており、これを期にソナム・ゲルツェンはデシの職に復活し、ゾンの修築活動を行った。


第四十六代デシ、カギュ・ワンチュク Kagyued Wangchuk の時、1864年の洪水により、また1897年には地震で上流の氷河湖が決壊し、大きな被害を受けた。プナカ・ゾンポンは重要職で、国内への影響力は甚大であることからゾンの掌握も権力争いの重要な要素として認識されたための被害である部分が大きい。1952年初の国民議会がここで開催され、冬期はジェ・ケンポが滞在し、執務を行っている。


ゾンの歴史

ゾン・チュ建設
1636 シャブドゥン・ガワン・ナムゲルによって基礎が建設
1676 ゲルツェン・テンジン・ラプゲがウツェを建設、金のドームを設置
1720 ゲルツェン・ガワン・ギャツォがポチュ、モチュに架橋。また、チベット大蔵経仏説部をゾンに奉納
1744 シェラプ・ワンチュクが寺院をゾンの中に建設
1789 火災、ジグメ・サンゲにより修築
1792 火災、ソナム・ゲルツェンが修築
1800 [1802?]、放火による火災、ソナム・ゲルツェンが修築
1831 火災
1849 火災
1864 洪水
1897 地震で上流の氷河湖が決壊し、流失
1905 JCホワイトがウゲン・ワンチュクに KCBE を授与
1952 初の国民議会が開催
1960 洪水
1994 洪水
1986 火災によりジェ・ケンポの部屋を焼失
2000 修築作業終了
2001 ランジュンカルサパニ盗難騒動